ヨモヤマバナシ

【 オレの師匠 】

掲載日 2008-12-16

先日、11月25日がGusのバースディだった。
生きていたら77歳だったよ、とGusの奥さんのBettyからメールが来た。
Gusが亡くなって随分経ったものだなぁと思うと同時に、重〜いGusを自由に操っていたゴトッチの事を思い出した。


ゴトッチと知り合ったのは1973年、新宿の光ビリヤードでのこと。
仙台から上京して学生生活をしていた友人と3人でいつも通っていたのが、運悪く「光ビリヤード」。
エレベーターから降りてすぐの台にいつもいたのが6〜7人で、その中の1人がゴトッチだった。
はじめは4、5台離れて撞いていたのだけれど、何回も通っているうちにゴトッチから声を掛られて一緒に球を撞くようになった。
ひっかかったのである。

最初から3・5・7・9のジャパンで、ハンデは8か6・8のシングルのみ。
このハンデはしばらくついて廻り、でもそれ以上のハンデはくれなかった。
1点50円で、サイド倍。9番は2点・サイド4点。マスワリは倍…。
こんなルールで全日本チャンプとド素人がゲームしてゲームになる訳がない。
30〜45分というあっという間に¥6000とか¥8000とか負けた。
一緒にいた2人はあまりやりたがらなかったが、自分は違った。負けるからやり続けたのである。何とか一時間持てばなぁ…。
全然球をつけないド素人を相手に、手加減なし。
少年マガジンを読みながら、鼻くそほじって、そして自分の番になると取りきる。


30年ほど付き合ったけど、1度も、1円も勝ったことはない。まぁ最後の10年は全然しなかったから、20年か。
Totalで何千万かは負けているが、別になんてことはない。
ギャンブルの金でこっちが下手だから負けたのだ。
他から勝って、またやれば良い、ずっとそう思っていたし、そうしていた。
何で勝つかって??パチンコ・マージャン。マージャンは楽である。他の人の手が見える。
当時千点100円で25持ち3万返し、アリアリでやって殆ど負けたことがない。一晩やると2・3万は簡単に勝てる。
だから¥6000〜¥8000は自分では許せる範囲の授業料だったのである。


自分以外でいつも負けていたのはウチノさん。ゴトッチに『ウチノは上手いよなぁ』とずっと言われながら、勝ったのを見たことがない。バリバリのA級だったウチノさんでさえ、太刀打ち出来ないくらい強かった。
途中何度か『球をやめる』と宣言していたけど、長くは続かず、また戻ってきて払っていた。他の人も大体そんな感じ。でも自分以外にずっとゴトッチの側にいた人をオレは知らない。
自分は何故ゴトッチに払い続けたのかな?と思う。ハンデもろくにくれず、いつも取られ放題なのに、よくまた相手をしてカモられたもんだ。Why??


自分はゴトッチの球が好きだったんだろう。
最初は全然理解も出来なかったけど、そのうち自分にもマスワリなどがちらっと出来るようになると、他人のレベルも理解出来るようになる。ゴトッチはすごかった。ホントに…。
付き合いの中で覚えているのは、彼がTADを使っていたこと。R・Blackも使っていたね。
Adamのブレイクキューで撞いてもすごかった。
TADのタップが好きで、いつもねだられた。
あのケチなゴトッチがタップをつけてもらうのに、JPBAの立花プロに¥3000払う。と聞いて驚いた。タップにはうるさかったね。


ゴトッチはGus使いで有名だったけど、心の中のライバルだった奥村さんの影響もあったと思う。ゴトッチのGusは22オンス位で長さも60インチ。重量挙げ選手の様なゴトッチだったから使えたけど、160cmほどのあの身長では普通は使いこなせないと思う。
ゴトッチのゴリラのようなパワーと誰にも負けない練習量でカバーしていたね。


賭け球が終わると、いつもごちそうしてくれた。ついさっきまではオレの金(笑)
そして呑んだ後、ゴトッチの部屋に泊まったっけ。
『なぁ、ヒシヌマ〜、おまえなぁ、あそこでこうすりゃ…』と寝ても起きても球の話ばかり…。こっちも好きだから理解しようとしたし、真似ようと思った…。努力したよ、オレも。


ゴトッチは怪物だったね、モ・ン・ス・ター!!
『ヒシヌマ、この球を撞いてみろ!撞いて、ここの手のところに止めたら、1万円やるよ!』
『そんなの無理だよ。』
『見てろ!』
ボールを置いて、キューをしごいて、すっと撞くと、手玉は生き物のように3クッション廻って手の平に戻ってきた。1万円取られるのかと思ったら、そうではなく、
『こんな球はここに戻ってくるに決まっているだろう!!』
『ハイ。』
とにかくキューが切れた。あきれる程に…
でもいつも『ホントのキュー切れは思ったところに手玉を止められること。バカ押し・バカ引きはキュー切れじゃない!』
ゴトッチの引きは、キューをシュッと突き出して、手玉が止まってから加速して戻ってくる…。そんな感じ。

ビリヤード光がなくなって、スポーツランドに移ってからは地下のせいかテーブルはより重かった。けどゴトッチは関係なかったね。

どんな球が印象に残っているかって?ブレイクが下手だったね。ブレイクは断然オレの方が強くて上手かった。だから絶対教えてあげなかった。ゴトッチの口癖は『企業秘密』だったから・・・
ブレイクは企業秘密(笑)
ドローもフォローも上手だったけど、一番は勉強熱心。
最初は奥村さんのことを色々言ったりもしていたけど、呑めば必ず『奥村は上手い!』
利川プロが台頭してくると『あいつは頭が良い、ポジションミスが少ないなぁ』
オルコロが出てくると『あいつは勝つぞ!』と他人のことをいつも見ていたっけ。


自分が仙台に戻ってきてトーナメントに出るようになると、必ず結果を聞かれた。
『アマに負けているうちはまだまだだなぁ!』
『ナニやってんだ、オマエは!!』
『甘いんだよ!』
いつもいつも悪口ばかり。よくこれだけののしれるもんだ。

自分がプロになる前の年、1992年。オープン戦で2度ほどベスト8に残った。もちろんアマは自分だけ。4人が外国人プロ、3人は日本人プロ…。2度とも当時絶好調だったロザリオに一蹴された。
ゴトッチは2度とも最前列にドカンと腕ぐみをして、オヤジのように見ててくれたけど、恐かった…。
ニコリともしない。試合後も一言もなし。
新宿に戻ってから
『何であの時は…』
『隠れたら思いっきり当てろと言っただろっ!バカ!!』
『廻って入るかもしれないし、隠れるかもしれないし…ホントバカだよ。』
ずいぶんカモられて…。怒られて…。テクニックは1つも教えてくれなかった。
『球は見て覚えろ!盗んでも返せとは言えないだろ!』
『下つけば引けんだろ〜が』


キューを色々変えただけあって、キューについての知識も旺盛だったね。
アメリカからキューを持って帰ってくると、成田で待っていたのがゴトッチ。
『???』
『キュー見せろ。』
『エッ、ここで?』
『そうだよ。見せろ!』
『これはいくらだ?これは?これは?少しタケ〜な。いくらで買った?んじゃ50万で良いだろ。分割な。うちの若ぇ〜のがキュー欲しがっててよ。応援してやれよ。』
持ってきたWhittenにキューさっさとしまうと、スタスタ歩き出す。
迎えに来てくれたのではなかった…。


一番弟子は○○だ。とか何とか他人は言ったけど、オレもそう思っていた。
ただ、残念なのが白血病のこと。01年の夏から知っていて、一言も相談してくれなかった。
所帯持ちのオレに余計な心配をさせたくなかったんだと思う。
本当に優しい人だった…。
もし知っていたら、ひっぱたいても入院させて、米の配達もしてやったのに。気付かなかったオレも若かったけど、東京で会うたびに
『ヒシヌマ、オレのキュー買ってくれねぇか。』
『風邪ひいてもなかなか治んねぇんだよなぁ』
『オレ死ぬんじゃないか?』
『何バカな事言ってんの!ゴトッチが死ぬ訳ねぇじゃん!!』
きっと寂しかったと思う、辛かったろう…東京にいれば言ってくれただろうし、気がついたかな、と思うけど、年に2・3回しか会わないと、まったく気付かなかった。


倒れたと電話が来た。土曜の夜の8時頃だっただろうか…。
周囲の皆はすぐに行きなさい。と言ってくれたけど、何故か行けなかった。
オレとゴトッチは師匠でもなければ、弟子でもない。お金もずっと一方通行。このまま勝手に死なれてたまるか。相談もなかったのはきっとそんな意味。

翌々日、亡くなったと聞き、天を仰いだ。(2002年4月22日)
もうあの球は見れない。ちっちゃい、人懐っこい目で
『この前よぉ…』
吉野家の牛丼がうたった『早い・安い・美味い』をいつも自分になぞっていた。
3・5・7・9で1時間で20マスしないと怒られたっけ…遅い!と。
下手は考えてもわかんねぇんだから、早く撞け!!
プロになっても稼げないんだから、プロになんないんだよ!当ったり前じゃねぇか。


オレはゴトッチがプロになって世界の舞台で活躍して欲しかった。きっと出来たと思う。
プロにならないんだったら、球撞きの神様の相手をしろ。と召されたんだよ。
Gusがゴトッチのキューが出来たと呼んだのかな?